もう誰もいないはずの本館二階の空き小教室の電気がついていたので、まさかと思って恐る恐るその教室の扉を開くと、そこには本当に蓮司先輩が居た。先輩もまさかわたしがここに来るとは思わなかったのだろう、ポカンとした顔をしている。
「……なんで、ここに?」
「それは割とこっちのセリフですよう、蓮司先輩。卒業したはずの人がこんなところに居るなんて、わたしもビックリです」
わたしがへらっと笑うと、それもそうか、と先輩も笑う。
「卒業式の時に、あんまりゼミの先生と話せなかったからさ。事前に連絡とってて、今日ここでちょっと話してたんだ。ここの鍵は夜守衛の人が閉めてくれるとか何とかで、あとはゆっくりしてっていいよって言われてちょっと──考え事をね」
そうだったんですね、と言いながら教室の中に踏み入ったわたしは、ソーシャルディスタンスとやらに気を使いつつ先輩の手前側の椅子を引いて座る。そういえば得体の知れない感染症が流行したせいで、今年卒業の代の卒業式は散々だったらしい。式典の時くらいにしか踏み入れないせっかくの礼拝堂には立ち入ることすら許されず、階段教室に学科単位で散り散りに座らされて、中継を眺め終えたらサクサクと敷地から追い出される。それこそ、卒業生が一番お世話になったゼミの先生とすら満足に歓談できないほどに。なるほど、それでリベンジということだったのか。時任は授業もないのにどうしたの、と訊かれたので、うちの学科は今日健康診断だったんで、とはぐらかす。先輩はなるほど、と言ったきり、それ以上は特に何も訊いてこなかった。
「それで、一体何を考えてたんですか?」
「あぁ……いや、こうして大学生が終わるな、と思うと、やり残したことって結構あるなあって思ってね」
「先輩でも、やり残したことなんてあるんですね」
「意外?」
意外です、とわたしが言うと、先輩も笑う。
冗談抜きで、先輩は結構充実した大学生活を送っていると思っていた。彼女もいるし、異性にも同性にもちゃんと友達がいて、アルバイトも学業も趣味もそれなりに好きなようにやっているイメージだったのだ。それを素直に言うと、先輩はさらに声を上げて笑った。わたしはそんなにおかしなことを言っただろうか。
「まあ、もらえるものはいっぱいもらった学生生活だったよ。悪くはなかったね。だけどまあ、それと『憧れ』はまた別のものだろ?」
憧れ。やり残しではなく憧れ、と。
「何か、そんなに……憧れてたものがあるんですか?」
「……これ、ちょっと話が長くなりそうなんだけど、いいかな。まだ帰らなくて大丈夫?」
先輩が、いつもの頼りなさそうな目でこちらと腕時計を交互に窺う。わたしは考える間もなく答えた。
「もちろん!」
「こう、人を好きになるって、いろいろなパターンがあるよな」
「んー……それって例えば、一目惚れとかってことですか?」
いやいや、と先輩が手を振る。
「今のは俺のたとえが悪かったな。ええと、人に限らず、モノとかゲームとか、なんかそういうものを好きになるスタンスそのもの……というかさ」
「スタンス……というと、陶酔というか過集中みたいな、そういうやつですかねぇ」
「あ、そうそう。前に時任が教えてくれた過集中は割と近いかも。そういうやつの話なんだけどさ」
そう言うと、先輩はしばらく黙り込んだ。どこかを指そうとした指先だけが、指すべき方向を見失って彷徨っている。どこでもないどこか一点を見つめたまま目を細めて戯れに指を弄ぶのは、何か言うべき言葉を見つけようとするときの先輩の癖だった。わたしはしばらくそのまま、先輩が悩む様子を眺める。
「なんか……こう。俺はよく『メモリを食われる』って言ってるんだけど。なんか、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱい、みたいな。そういうことってある?」
「恋愛してる時のわたしの話ですか?!」
「そこで目を輝かせるな。座れ」
「うへぇ」
勢いよく立ち上がったわたしは先輩におでこをツッと押され、そのまま跳ね返って椅子に戻る。わたしの扱いが雑なのは、先輩の機嫌がいい証拠だった。
「多分あってると思う。そういう、メモリを食われるような体験自体は、俺にも何度かあった。人に向いたらそれを過集中って呼ぶのかもしれないけど、それは例えばゲームだったり勉強だったり、まあ何でもいいんだけどさ」
先輩が何を言いたいのか図りかねたので、わたしは頷き役に徹することにする。先輩はしばらく言葉を選ぶようなそぶりを見せてから、大きく溜息を吐いた。
「そういうのが……あー、コミュニティの中でとかさ。そういうところで何かする、みたいな中でメモリを食われるような体験ができなかったことが惜しいな」
「コミュニティ、ですか」
「ああ」
先輩は首を左右に傾けて、それからぐるりと回すと、そのまま外を見やった。わたしもつられて外を見る。わたしたちの大学は坂の途中に建っていて、正門側の地上から入ると今いるフロアは本館の2階にあたるが、正門の逆サイドにあたる今いる教室の位置だとこちらは地上階で、窓からは中庭の桜がよく見えていた。桜の木々から視線を外さないまま、先輩が呟く。
「……俺、サークル入ってなかったし」
「ですねぇ」
「なんかこう、サークルの中で、男女でわいわい……とか。なんつうんだろうな。強制力があるわけじゃないけど、限りなく近い人間が何となく溜まってるみたいなコミュニティで、さ。性別みたいな記号とか、境遇とかそういうのも全部含めて楽しむような、そういう概念みたいなものにメモリを食われたりしてみたかったなあって、それは今でも思うね」
やや早口なそれで最後まで話し切った先輩は、かけていた眼鏡をはずして眉間に手をやった。わたしは首をかしげる。
「それって、今からするんじゃ遅いんですか?」
「……社会人になったら、それは難しいだろ。常在するコミュニティが利害関係を共有するんだ、強制力だってあるけど無責任に楽しむ余地なんかないと思うんだよ」
「……まあ確かに、それはそうかもしれませんけど」
男と女って記号に意味が本当にあるのなら、わたしじゃダメなんですか。
訊けもしないことを思案するわたしの心中を知ってか知らずか、先輩は眼鏡をかけなおすと頬杖をついてふふ、と笑う。
「白状すると、お前にメモリを食われっぱなしだったこともある」
「急になんですか先輩、愛の告白ですか?!」
「騒ぐんじゃない。違うから座れ」
「うへぇ」
わたしはけたけた笑いながら元に直る。心当たりは、無くはなかった。けどそれが愛の告白などではないことは、わたしがいちばん知っている。
先輩とわたしが共に居たひとときは、依存のようで、過集中のようでもあり、ただわたしたちは友達であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。それ以上にもそれ以下にもする必要がないことを、わたしたちだけが確信していた。だからわたしはそれでよかった。先輩にとってだって、きっと。
「お前は本当に、いい後輩だったよ。今までありがとうな」
「何湿っぽい空気になってるんスか先輩。先輩が社会人になっても、わたしはずっと先輩の友達ですよ?」
「当たり前だろ──あ、いや。友達でいてくれるのはありがたいよ。だけど……」
先輩の目が、する、と泳いだ。先輩の体がわかりやすく強張る。なぜかそのまま先輩が崩れ落ちるんじゃないかと思って、わたしは慌てて手を伸ばして──────先輩の手を掴んだ。
「──それ以上言わなくても、大丈夫ですよ、先輩」
この教室は、わたしと先輩が出会った場所だ。あの頃はわたしはまだ新入生で、他にも先輩が居た。
他学科の教授に気に入られたいというやや不純な動機で参加した有志の委員活動で、同じ小班に分けられたのがわたしとひとつ上の蓮司先輩、それからふたつ上の小村先輩と鈴木先輩だった。わたしたち四人は特に何が共通していたわけではないけれど、すぐにとても仲良くなった。あまり使われることのないこの小教室に集まって、お昼ご飯を食べたりテーブルゲームに興じたりすることもあった。わたしたちはとても良い【友達】だったと思う。小村先輩と鈴木先輩が卒業するまでは、疑ったこともなかった。
卒業して、環境が変わったからって、【友達】というステータスが簡単に消失するわけじゃない。けど、それと今まで通りの親交量が続くかどうかとはまた、別の問題だ。小村先輩も、鈴木先輩も、卒業してから私たちに連絡を寄越すことはほとんどなかった。それを相も変わらず【友達】と形容していいのか──わたしたちには、判るはずもなかった。
もしかしたら、先輩もそんなことを予感しているのかもしれなかった。それを嫌だと思ってくれているのなら、友人冥利、後輩冥利に尽きるというものだ。でも、だからといって、できない約束をして先輩を縛り付けるような真似をする気にはなれなかった。
先輩の眼のふちが赤く霞んでいる。わたしは先輩の手を掴んだまま、極力先輩の顔を見ないようにして、ひとりごとのように云った。
「わかってますから。────だからまた、一緒にプリンでも食べに行きましょ」
先輩が俯いた顔を上げたのがわかって、つられてわたしも顔を上げる。換気のためにあけられていた窓から風に吹かれて散りつつある桜が舞い込んできて、その光景はとてもきれいだった。先輩はわたしの目を見て、ふふふ、と笑った。
「ああ、解った」
「ときとー! ここにいたのね! 探したよう~」
「あ、ごめん」
────卒業式が終わってから。
感染症の流行は収束しつつあったものの、やはりわたしたち卒業生はさっさと会場を追い出された。感染対策の一環なのだろう。学籍番号順に屋外へ放り出されたせいで数少ない友人とすらはぐれていたわたしは、なんだか名残惜しくなって敷地内を足の向くままに散策していたのだが、気が付いたらあの本館の隅の小教室にいた。ちょうど中庭の桜が満開で、その景色に見とれていたところを、わたしを探していたらしいゼミの友人たちに呼びとめられたのだった。
「時任は何でここに居たの? 思い出の教室ってわけでもないっしょ?」
「あたしたち、本館二階の小教室はほぼ使わなかったもんねえ。どうかした?」
「いや、なんでもない」
同じゼミの友人たちに、蓮司先輩の話はしたことがなかった。する必要も機会もなかったし、何より自分が一番虚しい気持ちになるのが判っていたからだ。
あれから蓮司先輩とは一度も会っていない。先輩が元々メッセージツールで会話することを好まなかったのもあり、いつも雑談として軽くしていた近況報告をすることもままならぬうちに、どのように接していたのかだんだん分からなくなってきてしまっていたのだった。
でも、もしかしたら人間は常にそういうものなのかもしれないな、と思う気持ちはあった。これから一緒に写真を撮る友達だって、卒業式の一か月後には音信不通になるかもしれない。だからといって、この卒業式の日に袴で並んで撮った写真の記憶まで墨で塗る必要はない。あれから先輩に会っていないことを悲しんだり苦く思ったりしたからといって、先輩との思い出が無駄だったと証明されるわけではない。
いつだってなんだって、結論を急ぎ過ぎてはいけないのだ。
「ねえ時任、いまみんなで話してたんだけど、みんなで証書掲げて後ろから写真撮ってもらうやつやらない?」
「いいね、やろうか」
「教授がカメラマンになってくれるってよ! 早く行こ!」
「わかった、今行く!」
教室を出る直前、わたしは一年前に座っていた席の方を振り返った。
あの日の先輩の笑った顔は、とても綺麗だった。
わたしにも、憧れがなかったと言えば嘘になる。わたしも結局馴染めなかったサークルを一年で辞めたし、あのとき先輩が語ったこともわからないでもなかった。
でも、わたしもやっぱり、いろんなひとからいろんなものをもらった四年間を過ごした。もらったものや手に入れたものたちが最終的にどうなったかは関係ない。それは様々な形で今も、わたしのからだに残っている。
そういうひとつひとつを忘れないように生きていきたい。蓮司先輩のあの笑顔を、忘れないで生きていきたい。わたしの大学生活は、そうして幕を閉じた。