注意
この記事は『NEEDY GIRL OVERDOSE』の重大なネタバレが含まれる恐れがある為、閲覧の際はご注意ください。
この記事はゲーム『NEEDY GIRL OVERDOSE』の二次創作小説作品 [Drop to the Roche Limit ─天使の四季 春夏編─] の感想文です。
波打ち際の散歩
収録作四編のうち、唯一『ピ』視点の短編。
拙の個人的なニディガ解釈は「配信者として生きることを選んだ雨に実在パートナーはいない(実在パートナーがいる彼女に、同じ形の配信者となる未来はない)」を原則としていたが、そのような強い思い込みがあっても、「それはそれとして、まあこうなる未来もあるかもね」と思えるほどの、良い解像度の短編だった。
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他人の人形遊びには興味が無い。ともすれば、原概念形成者のそれだってそうだ。その気になればわたしは、公式だって解釈違いだと言ってみせる。
それでも、例え生まれがそうであっても、撒き餌を作ることはできる。釣り糸を垂らしておくことはできる。
事ここに至って言葉にするのは野暮だ。例えわたしが引っかかったのがごく単純な仕掛けであっても、仕掛けた人間と同じものが見えているのならばそれは本望だ。その一点でわたしは、罠でも良いと言い切れる。
わたし、あめちゃんの笑い方、好きなんだよなあ。
Rainy Day, Rainbow Present
ひと月を越えて年単位で平和的に配信者を続けたあめちゃんが、春と「自分の誕生日」に向き合う4章構成のお話。配信パートや、ぽけーとも登場する。
春を「己を孤独にする季節」と称して厭うたあめちゃんが、春に触れて起こした僅かな行動によって人と交流していく、春らしい心温まる物語。表紙のイラストにも注目。
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二次創作をする意味は幾つかある、とわたしは思う。それは例えば『この状況下にある対処概念のなにかを見たい』という欲求かもしれないし、あるいは『ある動作を行いたい』という生理欲求と『己の成果を賞賛されたい』という承認欲求が落とし所を求めた結果かもしれない。けど、それ以外にもひとつ、この話を読んで、わたしが気づいたものがある。
それが『原概念形成者のエミュレート試行』だ。
春が嫌いかとか、コピ本の作り方知ってそうかとか、そういう解釈の次元ですらない、もっと深いところに思想を埋め込む行為。狙って埋めているのかもしれないし、あるいは彼なら手癖で作れるはずだ。わたしはとっくにそれを知っているし、それに味を占めている。
だってあめちゃんなら1984年を読んでそうな気がするんだ。彼女が本当に得たものを乗りこなせる知性の持ち主なのか、あるいはただ受け売りを並べていただけなのか、実のところわたしは蜘蛛に教わらなかった。判断がつかなかったのだ。だけどあれが前者だったらかっこいいよねと彼は語っている。もしくは前者だったらかっこいいんだよと。言葉にはしない。それを原概念のエミュレートによって彼は示している。示せるだけの、引き出しがそこにある。
それができる人は、きっとあんまりいない。